19歳の今、思うこと

19歳の今、思うこと


混沌とするこの社会で生きて行くのは難しいことでもあり、こういった身体になると、もはや、サバイバルである。しかしこんな身体だからこそ、山も谷もあって、時代を楽しめるのではないだろうか。こんな簡単に言ってしまうと何も考えていない楽天家のようだけど、苦しんで、醜くなって、やっとここまで辿り着けた。それまでは本当になにもできない、つまらない人間だった。

 産まれたときから、生きてはいなかった。母の身体から外の空気に触れた時は、ヘソの緒が首に巻きつき、仮死状態だったと言う。独特の赤ちゃんの鳴き声では、誕生しなかったのだ。なんとか息を吹き返し、サバイバルの中生きてことが始まった。反対を押し切って結婚した両親は、手を差し伸べてくれる親戚はなかった。 私はこの後、先天性多発性関節拘縮症という、初めての肩書きをつけられた。両手首は内側へ曲がり、両方のひじもひざも曲がらず、足は地に着くことさえできないほど変形していた。筋力が弱く、腕をあげたり、物を掴むこともままならない。なにもできない赤ちゃんが、このまま大きくなろうとしていた。病院側はいい顔をしなかった。けれど両親は私のことを迎え、育ててくれた。私は1歳半の時に、手術で足を地に着けられるよう、筋を切ったり、骨を少し動かす手術をした。歩ける確率は非常に低く、5歳で歩けるかどうかだった。その時点で立てなければ、一生歩けないだろうと言われていた。母は身体を壊しても、水泳・針・病院の訓練をこなし、3歳には立てるようになっていた。長距離歩行は無理にしても、奇跡が起きていた。2度目の奇跡。その後病院内の歩行訓練で、担当の先生が目を離したときに転倒し、額をわって数針縫ったことがある。打ち所がもう少し下だったら、命にもかかわっていた。幸い脳にも異常はなく、生き延びていた。手術のあとは残ったけれど、この後奇跡は幾度となく起き、私を助けてくれた。私に『生きるんだ』と、教え続けた。

 今は中学生の妹が2人いる。私が、ミルクを飲ませてあげていた妹たちが、心強い味方。産まれる前は本当に嬉しくて、毎日空に向かって「妹が元気に生まれますように」と、お願いしていた。勝手に妹と決めてたのだけれど、妹なら大きくなって一緒に服を着回したりしたいと思っていた。残念ながら、今は体系も違うし、私が一番小さいから、そんなことはできないのだけれど。買い物に行ったり、食事やトイレの介助もしてくれ、お風呂にも入れてくれるくらいたくましくなった。いつもケンカしたり、憎まれ口をたたいていても、いなくなったら寂しい。両親は離婚して、私たちは母のもとで暮らしている。母は私たちを育てるために、国の保護もうけずに、朝から晩まで働いてくれている。妹たちは寂しい思いをたくさんしていると思う。母も妹も苦労をして、私のことまで抱えている。そんな母に、妹たちになにかしてあげられたら、とよく思う。現実的に今すぐなにかを、ということはできない。けれど今は、やりたいことも、夢も、たくさんある。簡単に逃げる人間ではなく、戦い続けられる人になっていきたい。それが唯一私にできることではないだろうか。そして1万人に1人以下であるプレミアの身体を引っさげて、今、コドモからオトナになろうとしている。

 どうせなにもできない、どうにもならない。だったらなにをしようとも、思わないほうがいい。夢なんかもういらない。それが小学生の私が出した『答え』だった。健常児の子たちと幼稚園に通って、養護学校へ進学した。ショックなことが多かった。学校に行けば言葉の分からないクラスメート達。地域の友達とも学校が違うだけで話もあわず、体力も追いつかなくなった私は、自然に距離を置くようになり、何もかもが嫌になっていった。自分で決めた養護学校生活なのに。半端者でなにもできないから、望まないようにする。学校でなんでもできる子と言われることが、嫌だった。こんな身体なんてキライ。外に出てみればうしろ指さされて、笑われる。そんな頭と、心はもっと手や足が使えたらと、思っていた。母に手と足は、もっと使えるようになるなら、どっちの方がいいかと、尋ねることもあった。何度か手首を切ってみようとも思った。すべてを身体のせいにして逃げ出したかった。逃げ出したいのに、行動に移す勇気さえなかった。こんな身体も、自分も、本当に嫌いだった。

 嫌いなものだけはたくさんあった。食べ物もそうだけど、大人がキライ、先生がキライ。先生はよく学校に尋ねてくるお母さんがいる生徒には、よく構って優しくている。妹がまだ赤ちゃんだから、学校にこれないお母さんはいいの。バスのお迎えにはちゃんと着てくれるもん。私なんかどうでもいいんだ、いらない子なんだ。だったら中途半端に構わないで。だから先生がキライ。学校の友達や妹は好き。一緒に遊んでくれるもの。だけど健常の子はキライ。特に男の子なんて、私を変人扱いして笑う。だけど一番は…。買い物に連れていってくれたり、ご飯を上手に作れるお母さんは、好き。そうなりたい。髪を結んでくれて、フルーツをキレイに切れるお父さんは、好き。けれどお酒を飲むし、煙草も吸う。休みの日は遊びに連れて行ってくれるっていったのに、よその子はいつもどこか連れてってもらうのに、必ず約束をやぶる。ぶったりもするから、そこはキライ。そして成長するにつれ、見えてきてしまう家の中のドロドロした部分。外に愛人を作って、貢いで、ギャンブルに明け暮れて、母が子供のためにためた貯金も、抜き取って行っては自分の遊びたいことに使う。それが爆発して父にぶつけたとき、私を娘とは思ってないと言った。それから話した事はない。大人なら、子供のこと分かってよ。きちんと見て。大人も、他人も信じちゃいけない。無意識に自分の夢も眠らせていった。 学校はたのしかった。けれど苦しかった。できないことをできるように訓練する。状態のよくなる友達はいても、私は変わらない。目に見えるものが、なにもない。悪化は食い止めることができても、身体が少しでも使えるようになるわけではない。それどころか転倒による骨折で、肘は曲がらなくなっていくし、体重増加で足腰が痛い。最初から「できない」と言う方が楽だった。キライ、つまんないと逃げていた私。そして障害者だから、こんな身体だから詰まんない。体中いっぱいに渦巻いていた。
 
 演劇部に入り、好きな事を見つけて、結果が産まれた。少しずつ自信を持っていって、いろんな人に出逢っていった。『できること』が自信になって、私を変えていった。そんな時、強いと感じる障害者達に出逢った。高校1年生の夏も終ろうとするころ。初めて1人で外出したのが、兵庫で行われた障害者甲子園への参加。震災から半年後、真夏の暑さが残る中、水分調整をしてトイレに行く回数を調整しても、母の大反対と壁を乗り越えても、行った意味があった。高校生限定でたくさんのセッションをする、3泊4日のこのイベント。『その時』しかできないもので、これからの私へ大きなパワーを与えた。自分を好きになれると思える、私の中での大きな出来事。そのキッカケをくれた大人は、想ったことになにも言わず応援してくれた。ここで同年代の健常者、障害者の友達を持つことができて、嫌いになっていた大人や他人を、少し信じる勇気が持てた。信じることができても、本当の自分を出せずにいた。線をひくクセは、時間とともに薄くなっていたけど、それは未だ持っているかも知れない。このイベントを乗り越えて、学校生活に戻ったとき、障害を持った友達への見方も変わっていた。12年間同じ学校で養護学校だったけれど、今振り返って後悔はない。養護学校なんてもったいないとよく言われた。学力だって一般学校ほどなくても、なんとか階段を昇れるようになったのは、嫌で苦しくても、訓練をしていったから。養護学校なりのドラマはあって、心を成長させることができる。背中を押してくれる先輩がいて、一緒にがんばる友達がいて、信じられる大人を見つけて、私は変わった。

 私の夢はなんだろう。何を目指していくのだろう。学生時代を終えて気づいてみた。女優になりたい。いろんなものに変身して、表現して、私を見てもらいたい。この身体も全部好きだから、もう、見られても平気。少しでも多くの人に知ってもらって、私から元気をもらったり、希望をもらったりしてほしい。できるかできないか、障害者とか健常者とか関係ない。いつ、どうやって叶うか分からないけど、目標があって走っているほうが力いっぱい走れるとおもう。そしてもう1つ、結婚願望。結婚したって、心が惹かれあわなくなったら、別れる。だからそんな気持ちはいらないと思っていたけど、母のようなお母さんになりたい。身体しか求めないのが、男の人。だけど、そうでないかもしれない。強い人になって、家庭を作りたい。お嫁さんになりたい。よそとは一緒にはならないと思うけど、オリジナルな安心できる家庭を、一緒に作りたい。ずっと凍っていた心が、溶け出した。
 
 夢をかなえる武器のためにも、自信のためにも、リハビリ施設に入所した。家は離婚するころ、妹は中学上がりたてと受験生だった。心配が山積みにあって、決断を下すには何ヶ月もかかったけど、ここまで変わってこれた私は、家を離れて過ごす日々にチャレンジしていくことにした。人を信じて、裏切られて、がんばり続けることって、難しい。心の壁を壊すのは、本当に大変だし、すごくパワーの必要なことだ。誰かのせいにして恋愛もまっすぐできなかった私が、施設にはいって彼氏が出来た。戸惑って、悩んで、自分を信じて進んでみた。健常者の男の子は、私のことを笑うと言う、幼い時からの心と向き合う瞬間。自分の気持ちを正直に話すこと。障害者だから、女の子なのに、いろんな圧力があったけど、恋愛も踏み込んで行けたことは、やっぱり自分に自信がついて、変わってこれたからだろう。

 半年も立てば生活には慣れて、施設生活に問題もたくさん出てきていた。セクハラまがいや、同室内の人達などの、精神的圧迫。そして裏切られた、彼氏からのレイプまがいの行為。死にたかった。逃げたかった。だけど、心が強くなってきて、変わってこれたから、生きていけた。せっかく見つめられた自分の夢を、手放したくないと必死にしがみついて、戦い続けた。生まれてこれたから、生きていきたかった。もう、望むことを溜め込みたくない。冷たい目の、自分を隠した子になりたくない。着替えができるようになったから、洗濯をしたい。料理がしたい。1人暮らしが怖くないくらいになりたい。1つ1つを大切にして、なにもできなくたって、今までの自分とは違う。その想いが少しずつでも前進させていた。やっと夢ややりたいことを見つめて、自分を受け入れられるようになるまで、約20年かかった。自分があゆみでいるために、進化を続けた。けれど歩きはじめたばかり。

 私は施設で生活して、戦ってきて、1つ思うことがでてきた。ここには中途障害の人もたくさんいる。施設内の人は、半分くらいの人は少しでも状態を元に戻したいと、訓練をがんばっている。けれど残念なことに、半分くらいの人は諦めて、投げ出してしまっていた。確かに私のように悪化は食い止められても、状態のよくならない人もいる。だからって、何をやってもいいの?心を麻痺させるのが、ここのルール。ただ、なにも見えないなにかと比べていた私と、また、違った圧力と戦っている。でも、そのままじゃいけないと、気づいてほしい。心は変わっていけること。その生活の中で、私を見て、あんなに小さい身体で、若い子ができるんだから、負けられないとがんばる人と出会えた。その人は中途障害の人。時々昔の自分の比べてしまうと言う。外で人に頼むことが嫌で、昔は自分でできたのにと、受け止めきれずに戦っていた。私は生まれつきで、小さい時から見られることが、当然だった。生まれつきでよかったと言う、不思議な感覚だったけれど、きちんと飲み込んでいた。知らない間に積み重ねていったもの、たくさんの出会いと愛が、異常なくらいにキライだった見られることも、心地よいと感じるパワーに変えていた。そして誰もがそのパワーを持っているのに、引き出せずにいる。気づかないから憧れる。キッカケがほしいだけなんだ。私もそうだったから。そしてまたチャレンジをはじめようと思う。

 障害者と健常者。
 いつからそんな言葉ができたのかは、解らない。みんな心は一緒なのに。でも心のカタチは少しずつ違って、同じカタチはない。だから好きな人、嫌いな人がいる。近頃世間でバリアフリー運動が、クローズアップされている。興味のあった時期もあるけど、それよりも障害者同志だってバリアを作っていたりする。相手に固定観念を押し付けて、線を引き、壁を作っていくことはつらい。そんな時間は少しにして、早く楽しい時間を見つけたほうが、どんなに楽しい毎日か。健常者だって障害者だって、自分の在り方で幸せの感覚は変わっていく。どんなに障害が重くても、軽くても、動物も、赤ちゃんも、好きと嫌いはあるのだから。みんな1人の人間として、生きている。そして幸せを計ることができないのは、身体も心もみんな少しずつ違うから。だからこそ、自分が信じたものに向かって進んで、幸せになりたい。街の中のバリアフリー運動は大切だけど、私にはそんな大きなことはできない。だけど、私にしかできないものもある。自分と言う最高で最強のライバルに巻けないで、生きていく戦いが、私にできること。なにができるできないなんて、誰にでもあるんだから。それが認められないと、社会の心の病気は倍増していくばかりだろう。1人じゃないって気づけたら、人との壁は自然になくなっていく。自分で自分を好きにならなくちゃ、誰も好きになってくれない。単純なのかもしれないけど、一番難しいこと。
 
 私らしいってなんだろう。らしさってなに?自分でそうだと思っていても、他人から見れば別である。そのひずみに迷い込んだら、抜け出すのは難しいけど、自分を信じて歩いていこう。同年代の女の子達は、学校へ化粧して行き、ルーズソックスとミニスカート。ピアスをして髪が茶色いのは当たり前。流行の者に身を包み、周りの子達からはみ出さないように必死で、お金がなくなれば援助交際なんて人もいて、社会問題にもなっている。みんながやってるからっていう言葉に甘えて、自由を履き違える。でも私だって、明るくて元気だけが私じゃない。泣き虫で、弱くて、でもなに色にも染まらないのが私と 信じてる。信じていても、答えが見つかるのは生きる事が終ったときだろう。
あともう少し経つと、社会に認められた20歳の大人になる。大人にならないピーターパンがうらやましかったけど、私は今、大人になろうとしている。自分のことが好きと言うことと、甘やかすことを間違えなければ、きっとステキな大人になれると信じてる。子供の間に覚えた大切なことを忘れずに、負けない私はこの身体と心があって、私でいられるのだから。

 お母さん、産んでくれてありがとう。