強い子と呼ばないで

強い子と呼ばないで


“強い子”そんな風に言われて「あゆだから」と言われて片付けられる。
 そんなのは、もういらない言葉。
 その言葉の中には『歩けるから』『しゃべれるから』なんて言われるけど、1つも努力しなかったら、今のあゆにはなれないんだよ。

 確かにね。体が動かないと、実際に動くのは難しいと思うよ。だってあゆだって、1人で外に出れるようになるまでは、そう思ったんだもん。
 “誰かがあゆをどうにかしてくれる”って。でもそうじゃないんだよ。
 あゆは、なんていうか、いろんな道をやってきたよね。どちらかと言うと、“先天性障害者のエリートコース”みたいな感じ。障害者を扱ってくれる病院に行って、養護学校へ行き、入所施設、通所施設、地域作業所って。そう言う所にいるとね、誰かに依存していく意識が普通になっていっちゃうの。それってよく分かる。

 あとね、あゆが知ってる人とかで、世界は狭いかもだけど、あゆと同じようなコースを歩いていても、自分は一般の人としてやっていけるって、ヘンに自意識過剰で、自分の体を隠しながら生きてる人。中途障害でも、ぽこっとすぐに、社会復帰出来ちゃった人とか。そう言う障害者ほど、依存する傾向にあると思うんだ。
 それってあゆの周りだけかもだけど、その確立が非常に多いのね。んで、そう言う人に言われるのが「あゆだから」って言う言葉。
 あるいは重度障害者を介護してる上で、周りが見えなくなってしまった人。

 「あゆだから」なんなの?

 『障害者について取り上げてくれるところはないのか』
 この言葉を、幾つかのネット上でも拾ったことがある。いろんな分野でね。
 あゆは「へ?」って感じだった。
 だってさぁ。
 この『障害者について取り上げてくれるところはないのか』って言うのって、依存してるじゃん。誰かがやってくれるって思ってるじゃん。
 そんな風にネットで言えるなら、自分から売り込んじゃえば?って思う。自分を売り込めばいいんだよ。だから乙武くんやホーキングさんだって、表に出れるようになってきたんじゃん。
 アレができない、これができないとか言うなら、動ける人をプロデュースしようって思わないのかな。ネットでそう言うパワーがあるならできると思うんだよね。

 いつだったか友達と話してて、自分をアピールする力のない障害者って、多くない?っていう話しをした。周りがよってきてしまうから、自分からの演出方法を知らなくて、たとえば、恋人に対してや、オフ会みたいな、いろんな人との集まりだとかで、『自分を分かって』って言うのは存分に出てるんだけど、方法が下手なの。ひょっとすれば、精神に障害のある人や、知的障害の人の方が、よっぽど上手だよねって。んで、あまりにも一方的過ぎるから、周りが離れちゃって、結局愚痴だらけになっていくって言う、悪循環。そんな風になってしまう人を、あゆは何人か見ている。それが悲しい。

 この間、満員バスに乗ったの。(彼と一緒だったから大丈夫だったけどね。)その時、知的障害の人も乗っていたんだ。街の人で独り言しゃべってたり、飛び跳ねてたりっていう、そんな人を、白い目で見る人、いるでしょ?さらに大きな声のおばさんとか、変人扱いで話すの。よっぽどあんたの方が変人だよ。って、ちょっと思ってたりして。日本人って面白いもので、人は1コト言ったことを、ハズレたくないからって、うなずいてしまうんだよね。それだけ寂しがり屋なのかもしれないけど。そう言う傾向のある集団の中で発したおばさんの言葉が、本気でムカッときた。いや、むかついても困るんだけどさ。そう言う人って、自分の子供が五体満足で、遠い世界のことだと思ってるんだろうなって。でもさ、自分の親やパートナーが痴呆になったり、障害者になることってあるじゃん。その時、すごく恥ずかしくなって、悲しくなってくれれば、反省となってくれれば、まだその人は優しい心が残ってるんだろうって。逆に、なんとも思えない人が、あゆはかわいそうって思うんだ。
 そのバスに乗ってた人は、パニックしないかなぁって、不安だった。あゆの体についてもだけど、これで何かあったら、すべての人がかわいそうだから。誰にも罪はないのに。でもその人は、自分で降りていったの。すごいなぁって、あゆは感心した。だけどその時のおばさんって、相変わらず大きな声であーだこーだ言ってるんだ。いなくなるって手段をとったあの人に対して、あまりにも失礼だと思った。これは言い返したいって、すごく思った。その時。一緒にいた彼が「理解がなくて、変人扱いする人がいるから困る」って、あゆに向かって言ったの。もちろん、そのおばさんにも聞こえてるんだけど。びっくりした。この状態であゆが言い返したら、ますます障害者って言うイメージが、悪くなるのは見えてたんだ。おばさんたちは急に黙り込んだ。同じ健常者で、若い人に言われたことがショックだったのか、それは分からないけど。彼って、あゆと出会うまでって、肢体障害の人とかと接点がなかったのに、ふと理解を示そうとしてて、びっくりしたんだ。
 こういった理解にかける人に、一番いい方法を彼は示してくれた。そうなの。結局当事者が何かしなくちゃ伝わらないの。

 「あゆだから」って言われるのは嫌い。できるのにやらない人のために、あゆは何かしたいって思わない。だけどね。どうしても自分が表現できないような、障害の重さや、種類があるでしょ。そういう人に目を向けて、社会に訴えでていくことは、ひとつも苦じゃない。その方法っていろいろあると思うんだけど、とにかく種類がどうのなんて、今の一般の人には分からない。悲しいことなのかもだけど、やりがいがある。“障害者”ってひっくるめられちゃうんなら、障害者手帳がある限り、あゆも障害者なんだわさ。だから、がんばる。そしてそれを見てくれてる人たちの中では嬉しいことに「あゆだから」って言う人はいない。

 「あゆは健常者として見られたいから、会社に行くんでしょ?」
 ちょっと待って、違うよ。確かにあゆはこのページでも再三“障害者だろうが普通の女の子”って言ってきた。でも、健常者ってヤツとは違うんだよ。べつにあゆは“障害者”でもいいの。だけど“あゆ”なんだよ。障害を持ってなかったら、やっぱりあゆではないの。
 あゆは今まで見たことなかった『健常者の世界』って言うところで、働くようになった。それはあゆにとっても未知であり、会社にとっても未知なの。お互いに歩み寄りたいって思ってるし、採用して、経験させてくれてる会社に、あゆは敬意を示したい。そして受け入れてくれてる現場の人たちにも、今までなかった異物(こういうと、何とか団体みたいな人に怒られそうだけど、ここで言うのはあゆってことで、勘弁してください。)を、迎え入れるわけでしょ。素直に尊敬してる。もちろん、仕事の面でもね。
 どうしたらって思うのは当然なんだよ。だってさ、急に泣き出した赤ちゃんに、オロオロしてたって、どうにもなんないでしょ。分かるまで調べたり、はなしかけるでしょ。まあ、あゆはしゃべれるからいいんだろうけど。そこで挫折する気なんて、サラサラない。あゆは言語に障害がなかったことに、とても感謝してる。だから今の世界があるから。だけど、この体で言語に障害があったら、どこにも行けないなぁって、思うんだ。なーんにもできなくなるから。んで、ちょっと見でわかんないから、誰にも気づいてもらえない。でも、あゆは体が使えない分、言葉が使えるように、バランスをくれたんだ。
 んでね、言語障害があるからだめなんだって思う人は、あゆは笑い飛ばしてあげたい。あゆは言語障害ないよ。またそこで「あゆだから」って思う?あゆが言ったって説得力のない分野だよね。だけどさぁ、こういうのもヘンだけど、なに言ってるか分からないような言語障害のある人とだって、話したりできるんだよ。そう言う人だって、がんばって社会参加してる人、いるんだよ。なぜ表に出てないか。それは一般の人に伝わりにくい、ただそれだけなの。でもそう言う人だって、表現をいろんな方法でしてるの。だから、ただそれだけだったら、なんにも不安になることないと思うんだよね。
 あゆには言語障害はないって言ったけど、あゆは手話やボディーランゲージが使えない。だから、あゆとは違う“言葉”を使う人と、コミュニケーションが難しい。普通はね。で、そこで避けていったらそれはおかしいでしょ。だって普通に人として、ハートに触れてみたいだけなのに。だからあゆは、頭をフル回転してなにかできないかって考える。手話を読めるようになれば、向こうの言うことが分かる。そんな感じで。自分の表現をどうするか。文字に起こせばいい。あとは全部ハートをぶつけるの。そうしたらなんとかなっちゃうんだ。
 会社に行ってたって、結局はハートをぶつけに行ってる。作業は確かに、ある程度体が使えて知識もないと、難しいかもしれない。でもさ、それってハード面(言葉も含め)がすべて整ったって、ハートがなくちゃだめなんだよね。

 「あゆだから」って言う人から、残念ながらハートを感じられないよ。そしてそう言う人とは、なぜか“障害者のエリートコース”で知り合ったり、そういった道を経験した人ばかりで、その世界がいやになっていた。だけどここ最近、いろんな人と出会って、あゆもまた変化している。
 この間嬉しかったこと。雑誌の座談会で車椅子の女性2人と一緒だったんだけど、その時の第一声が「歩けると大変でしょう?」だった。まじ?って思ったよ。その人たちはちゃんと周りが見えてるんだよ。こういった人たちの中にいられたら、あゆは無理して“普通の女の子”を、意識せずにいていいのかもしれないと思った。あゆもそうなりたい。そう言う世界を提供できるようになりたい。そしていつか、ふつうに街中にいろんな人がいて欲しい。

 このページでは“障害者だろうが普通の女の子”って言うのも言いたくて、どんな気持ちも表現しようと、日記にいろいろ書くように決めた。でも、こういう意識も、自分で作ってる障害者差別カナ、なんてちょっと思うんだ。だけどまだ社会は、障害者とくくってるから、だったらそう言ったくくられてる人と、健常者ってくくられてる人が、どれくらい近づけるのか、挑戦して行くのも面白いと思う。そして、溶け合うきっかけになりたい。

 あゆは強い子じゃないよ。
 とっても弱い子。
 だけど、憧れる強さのために、がんばろうって思うんだ。