障害者というコトバ

障害者というコトバ


本の出版と同時に、インタビューや会話で『障害者というコトバ』を、
どう思うか聞かれることが非常に増えた。
そして、『いるかいらないか』『ホワイトバンドのように分かりやすく』なんて
そんな会話になるのだけど、ぶっちゃけ、あたしにはおかしな話なんだ。

だって、そんなのどうでもいい。

本来、障害と言う言葉は、障壁があり、害があり、
無気力とか、やる気ない、どうしようもない…みたいな
そういう人のことを指すんだよ、と解説になる。
障害者手帳なるものが世の中にあって、それを持っている人が、
いちおう『れっきとした障害者』ってヤツなのね。
でも、街に暮らせば、その日その時で、誰だってハンディを持つわけで、
疲れてたり、生理痛があったり、ケガをしていたり…
『健常者』ってやつのほうが、ずっとずっと、本当は少ないように思う。

あたしのもつ『障害者』というコトバは
単なるカテゴリーなんだ。

オトナ・コドモ・オトコ・オンナ…
それってさ、中身と一緒じゃない場合って多くない?
すべてが見た目と合致するって思ってる?
あたしはイイのか悪いのか、だいたいが疑って人に接しはじめてる。
「この人、本当にオンナノヒト?オトナ?」みたいにね。
だから見た目と中身と戸籍と、どれかが性別が違う人達にも、
好きになってもらえるのかなあ…なんて思うんだけど。
キレイな人は、きれい。
カッコイイひとは、かっこいい。
それを見たままに伝えているだけなんだけどね。

だから、なんで車いすに乗ってるの?とか、
手が曲がってるの?とか
変な歩き方なの?とか
そんな言葉こそ大切に、ハートになにもカベもなく、
関係を築けるんだと思う。

その中に、分かりやすく『障害者』というラベルがある。

このラベルを、活かすも殺すも、自分次第なんだって思ってる。
だってさ、どんなにボロボロなラベルのワインだって、
中身がむちゃくちゃおいしかったら、ラベルなんて関係ないじゃん。
障害者って言葉も、検索サイトみたいに、たったひとつのカテゴリーで、
ラベルなだけなんだよね。
人にもラベルがついていたほうが、楽じゃない。
大きい人、小さい人、太ってる人、やせてる人…みたいに。

昔は気になったこともあったけど、そう思ったら関係ないじゃん。
ラベルに価値を持たせれば、
食べて、飲んで、気にいられれば、それが一番だなって思う。